without going | 2

「……!」
 突然叫び声を上げて飛び起きたヘイハチを、キュウゾウは振り返った。
「……」
 しかし黙って見守る辺りが、キュウゾウのキュウゾウたる所以であった。
――一方、飛び起きたヘイハチは、大きく息を切らして周囲を見回していた。
「……え、な、」
 状況が、把握出来ない。今自分は、どういうシチュエーションにいるのか。
 汗びっしょりだった。頭ががんがんする。唾を飲み込むと、やっと現実感が戻って来た。――古びた壁と装飾、汚れた天井。モーテルの一室だ。ヘイハチは怖る怖る、首を巡らした。
 キュウゾウが、双刀をベルトに差しながら、ヘイハチを見つめていた。
「キュウゾウ……殿」
 呻いた声は、がらがらだった。キュウゾウは僅かに眉をひそめた。低い声が聞く。
「どうした」
「……いえ、ちょっと、」
 額の汗を拭う。息が震えていた。
 ――今のは。キュウゾウが去っていってしまう、あれは。
 夢か。
 ――だが。それでは、今のキュウゾウの様子は。
「……あの、キュウゾウ殿。どちらかへ……?」
 キュウゾウは一つ頷いた。
「幇間から、メールが来た。――情報があるそうだ。ついでに、いい薬があると」
「そう、ですか。シチロージ殿、が、」
 ヘイハチはのろのろと、身を乗り出した。ベッドから下りる。その途端、負傷した右足に痛みが走った。顔が歪む。
「すみません。すぐ準備しますんで、私も一緒に――」
「馬鹿を云うな」
 キュウゾウが逆に、ヘイハチに一歩近付いた。ぺしり、と額を叩く。それだけでヘイハチは、どさ、とベッドに座ってしまった。キュウゾウの、淡々とした声が続く。
「怪我人が何を云っている。大人しく待っていろ」
「ですが」
 ヘイハチは食い下がろうとしたが、キュウゾウは容赦なく云い捨てた。
「ろくに歩けぬだろう。まだ熱もある。はっきり云う。邪魔だ」
「……わかっては……おりますが」
 ぼそぼそと答えるヘイハチの前へ、にゅ、と水が差し出された。それに錠剤。
 顔を上げると、キュウゾウが覗き込んでいた。いつも通りの無表情――では、あったが、
 どことなく、深いようにも思えた。
「飲んで寝ておけ。すぐ戻る」
「……はい」
 ヘイハチは聞き入れた。確かにこれでは、どうしようもない。だが不安は拭えなかった。――嫌なビジョンが、頭の中に蘇る。向けられた背中。去っていく後ろ姿。――夢だ。わかっている、いるが――
「キュウゾウ殿」
 ヘイハチはボトルと解熱剤を、テーブルに置いた。立ち上がる。キュウゾウが振り向く、その前に、ヘイハチは彼を抱き締めていた。背後から。
「……」
 キュウゾウは少し目を大きくして、背後を返り見た。――ヘイハチの、オレンジ色の髪が、肩越しに見える。抱き締めると云うより、抱き付くと云った方が近い。そのまま身動きしないヘイハチに、キュウゾウは静かに問いかけた。
「ヘイハチ?」
 怒るでもなく。訝るでもなく。ただ、名前だけを呼ぶ。
 それがじんと、ヘイハチの心に沁みた。
「……いえ。何でもありません」
 ヘイハチはゆっくり、腕を解いた。そろそろとキュウゾウから離れ、どさ、とベッドに腰かける。理由のない恐怖を追い出そうと、意志の力で笑顔を作る。
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
 キュウゾウは少し呆れたように、目を細めた。
「気を付けるような事は、何もない」
 キュウゾウらしい云い種だった。彼はそれだけ云い置くと、さっさと出て行った。緋いコートが翻り、ドアの外へと消える。
「……何、馬鹿な事を、私は」
 ヘイハチは、熱っぽい呼気と共に呟いた。――夢だ。ただの夢。【ヘイハチが一番怖れている事】だけれど、それが形を取ったものだけれど、それでも【夢】なのだ。ただの。
「……阿呆だな。私は」
 ヘイハチは自嘲すると、ベッドに大の字に引っ繰り返った。


〈了〉