星屑の革紐 | 2

数日後、ハーデス本人がわざわざオリンポス山にやってきた。
出迎えるヘラは久しぶりに見る弟神に笑顔を絶やさない。
「ハーデス、よく来れたな。生と死が訪れぬ日などないであろうに」
姫御のもとを毎晩訪れている事を知っていて、ヘラはハーデスをからかっている。ハーデスは頬を赤く染め、言い訳を始める。
「良いのだ、別に。余がいなくても冥界はちゃんと機能しておるから」
「ふふふ、そのように狼狽せずとも良いわ。そなたがアンドロメダの姫御を大切に思っているのはよう知っておる」
死という裁きの前に冷酷で厳格な冥王ハーデスも恋の前にはただの初々しい青年に成り果てていた。
ゼウスを除く祖神の誰もが幼かった遠い昔、面倒を見てくれたのがこのハーデスだったのだ。
何を置いても自分たちを守ってくれたこの兄がようやく幸せになれるのに嬉しくないはずがなくて。
ヘラはまっすぐに彼を自分の神殿に通し、傍らに椅子を勧める。
黒衣の彼がそこにいてもやはり王、威厳が少しも損なわれる事はない。
「ところで今日は何用じゃ?」
「ああ、そうであった」
女王自らカンタロスに神酒を注ぎ、ハーデスの前に供していた間、彼はごぞごぞと胸元を漁っていた。
出てきたのはブルーベルベットの小箱。中身はガーネットの指輪だった。
「なんじゃこれは」
「瞬に捧げる婚約指輪だ。これに姉上から祝福をもらえぬかと思うて」
「そうか、結納の品と言うわけじゃな。結納も結婚に関する儀式の一つ、良かろう」
しばらく預かろうと言うヘラにこっくり頷き、ハーデスは神酒を口にした。
「式はいつじゃ?」
「瞬が15歳になるのを待ってあげようと思っている。まだ13歳だからあと2年ほどはかかるが……」
瞬はアテナの聖闘士で、アンドロメダを拝命している。
そんな彼女がハーデスの嫁御となるのだから世界というものは面白くできているらしい。
ハーデスは愛した瞬がまだ幼い少女である事を鑑みて結婚の事実を先に延ばしているのだ。それは瞬自身の望みでもあったのだが、 それを了承したハーデスもすいぶん理性的で優しいと言わざるを得ない。
本当にあのゼウスの兄弟なのかと思うほどに。
「そうか、そなたはほんに優しいな。爪の垢を分けてはくれぬか?」
「ゼウスに飲ませるのか?」
「ふふ、察しが良いのう」
そんなかんじで姉と弟が笑いあっているところにのこのことゼウスがやってきた。
ハーデスとは対照的な純白の衣を颯爽と翻し、さも当たり前かと言わんばかりに中央の玉座に腰を下ろす。
「なんだ、姉弟揃って楽しそうだな」
「そなたを呼んだ覚えはないがのう……」
冷たい妻の視線、欺瞞に満ちた弟の表情。しかしゼウスにはどこ吹く風。彼は以前、瞬を乱暴しようとした事などはるか昔のことと忘れてさえいるようだ。
ヘラは思った――この愛しい弟神とその嫁御だけは絶対に守ろうと。自分の二の舞をさせてはいけないと。
しかしハーデスと瞬を引き離そうとするゼウスの魔の手はすでにその触手を伸ばし始めていたのである。