星屑の革紐 | 8
さて、その頃ハーデス様は本当にどうなっていたかというと、本当にゼウスの呪いで子犬に変えられ、とぼとぼと街を歩いていた。
冥府に戻る途中でゼウスに呼び止められ、気を失った。そして気がついたら黒銀の毛並みを持つ子犬に変えられていたのである。
なんとしてでも元に戻らねば。瞬の元に帰らなければ。
けれど街は子犬には優しくなかった。人間は我が物顔で歩いているし、ゴミは平気で投げ捨てるし、ときどき火がついたままの煙草も降ってきた。
アスファルトで舗装された道路は照り付けて熱かったし、車が多くて空気も悪い。
今朝方、瞬の部屋で見たあの美しい世界は偽りだったのだろうかと、ハーデスは空を見上げた。
空は灰色の雲が立ち込めて遠かった。
こんな世界を、瞬は命をかけてでも守りたかったのだろうか。
もちろんこれは人間のごく一部の姿に過ぎないだろう。けれどそんな人間が多すぎるのではないか。
そんなことを考えながらハーデスは歩いた。小宇宙を封じられ、瞬に居場所を伝えることも、瞬を感じることもできなかったけれど、それでも何かを信じて歩き続けた。
(瞬は何も諦めていなかったからな。余も諦めぬ……)
人がどんなに優しくなくても、瞬がいればそれでいいのだ。
そんなハーデスの決意の前に無情の雨が降る。
けれど子犬は必死だった。瞬のところに帰ろうと。
あの優しい腕に抱かれたいと願いながら。
ただ、タイムリミットがあることなど全く知らずにいたのだが。
雨は瞬の身にも容赦なく打ち付けた。
日没まであまり時間がない。狭い日本もやっぱり広いと思いながら裏路地のバケツや公園の池を覗く。
けれどハーデスは見つからなかった。
「どこにいるの……」
今夜また会いに来るからと微笑んで口づけてきた彼の顔が鮮明に思い出され、瞬の目から涙がこぼれそうになった。
泣いている場合じゃないとわかっていても、溢れて止まらない。
「ハーデス……」
どこにいるのと呟いた声が涙に滲んだ。
生まれたときから今日まで、無自覚な時期も入れて、瞬のそばにはいつもハーデスがいた。
そのほとんどは仮初の器、冥王の巫女として狙われていたのだけれど、でも今は恋人としてそばにいてくれる。
恋が愛になったと知ったとき、瞬は迷わず冥王の手を取っていたというのに。
どうして引き離されなければならないのだろう。
私とハーデスにどんな罪があったというのだろう。
瞬の心はだんだん最悪の事態に向かって動き出していた。
もしハーデスを見つけられなくても、自分があの男に身を投げ出せば彼は無事に戻れるのだ。
「ごめんなさい、ハーデス……」
瞬はとぼとぼと歩き出した。雨とも涙ともつかない水が頬を濡らす。
胸元の星が空しく揺れる――永遠にあなたのものと約束したその星が。