双子座聖夜曲 | 3
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。」
ベッドへ横たわってから、瞬が、隣のカノンに顔を向けつつ、改めて礼を述べる。
肉屋の店主が紹介してくれた店は、確かに、存分に舌を楽しませてくれたが、
瞬を喜ばせた要因は、それだけではなかったのだろう。
「明日は、今日の分までトレーニングをするぞ。
サガのせいでもあるが、結局、今日は何もできなかったからな。」
「はい。」
枕に色素の薄い繊細な髪を散らしながら、瞬が素直に返事をする。
いつもの夜とは、どこか違う空気。
カノンは、時間が止まったかのように、しばしその容貌を眼に映してから、
思い出したようにランプの火を消した。
ベッドへ入ってから小一時間が過ぎ、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた頃、
瞬は、心地よいぬくもりからそろりと抜け出し、冷たい床へ降り立った。
そのまま足音を忍ばせて、ゆっくりとドアを開ける。
「ちょっと、出てきますね。」
囁き声で言葉を残してから、そっと寝室を後にする。
その足で一旦自室へ向かい、コートを羽織ってから、しんと静まり返った宮の中を、音もなく歩いた。
向かった先は、下へと続く階段が見下ろせる、宮の入口。
そこへ腰掛け、白い息を吐きながら、空を仰ぎ見る。
「…きれいだな。」
灯りひとつない漆黒の闇に広がる、銀の瞬き。
闇であって闇でない空間。
肌を刺すような冷気が、一層、その寥々とした美しさを引き立てているような気がした。
闇は。
闇そのものは、未だに受け入れることができない。
時折思い出す、かつて感じた、無音の圧力。
ひたひたと忍び寄る、影。
抗う術を持たないまま、ただ、侵食が進むのを核で感じ、無へと覆いつくされた、自分という個。
宇宙にも、一切の光を呑み込む存在があるというが、
底なしの闇に堕ちた光は、否応なく自らも新たな闇の一部となり、かつての自身を侵してゆく。
成す術も、意思さえもないまま。
宇宙の闇にならずに済んで幸いだったと、今、改めて思う。
闇よりも強い光の加護を受けることのできた幸福を、今、自分がここに在るという幸福を。
あちらこちらで、星が瞬きを繰り返す。
光ひとつひとつの輝きそのものは、ほんの微かなもの。
が、それが無数に存在すると、闇は無たり得ず、有のものとなる。
それこそが、今の地上そのものなのだと、自分たちが守るべきものなのだと、
ふと、そんな、当たり前のものとも思える思念が、胸の内を通り過ぎていった。
「瞬。」
不意に、背後から降りかかった低い声。
瞬時にして、瞬の意識が地上へ帰還した。
そうして、そのまま、首だけを声のする方へ向ける。
「カノン…。」
「こんなところで何をしている。風邪を引いても知らんぞ。」
「大丈夫ですよ。それよりも…あなたこそ、どうしたのです?こんな時間に。
あ、もしかして、起こしてしまいましたか。」
「…何となく目が覚めただけだ。さあ、もう戻れ。明日の訓練に障りが出ては困る。」
「あと少ししたら戻りますから、先に休んでいてください。
…こんなことを言っては叱られるかもしれませんが、僕にとっては、ちょっと特別なんです。」
「クリスマスがか?おまえがクリスチャンだとは知らなかったな。」
「そういうわけではないのですが…僕、幼い頃…沙織さんの屋敷に引き取られる前は、
教会にいたんですよ。兄さんと一緒に。
そこで、神父さんが、いつも聖書の話をしてくれて…。
あんまり小さかったから、内容はあまり覚えていないのですが、
ひとつだけ、記憶に残っていることがあるんです。」
瞬の瞳が、再び、宇宙を捉える。
「イエスが十字架にかけられた時の話。
彼は、人々の罪をすべて引き受けて、苦難の道を歩んだ。
それこそが彼の使命だったのだと聞いて、どうしようもなく悲しくなって、
涙が止まらなくて、兄さんを困らせてしまいました。
自分の罪は自分であがなわなければならないはずなのに、どうしてなんだろうって。
あの人は、それでよかったのかなって。」
「…よかったのかどうかは知らんが、自分の意思でやったことなら、悔いはなかっただろう。
使命だとか運命だとか、そういうものから逃れたいと思っていたなら、そうできたはずだからな。
それに、イエスは復活した。まあ、それもシナリオのうちだったのかも知れんが。」
「神のシナリオ…ですか。それって、何だか…。」
「考えても仕方のないことだ。おまえと俺は、ここにこうして居る。それでいいだろう。」
「カノン…。」
「特別か何か知らんが、あまり長居はするな。」
言い残し、カノンが宮へ戻る。
瞬は、その足音を聞きながら、そっと息をついた。
つい先ほど、己の幸福を思い起こしたばかりだというのに、ともすれば、負の思いに引き込まれそうに
なる自分が居る。
「ダメだなあ…。」
そのようなことを考えるために、この場に居るわけではないのに。
吸い込まれそうなほどに深みのある天空で、星が、瞬きを繰り返す。
ふと、北西の方角へ顔を向けると、いつも共に在る人物の守護星座が、そこに存在していた。
「ほら。」
しばらくの後、再び背中から降りてきた声に、瞬が、驚いたように振り向く。
見上げると、マグカップをふたつ手にしたカノンが、そこに立っていた。
「これを飲んだら戻るぞ。」
言いながら、カップのひとつを瞬に渡す。
「放っておいたら、いつまでも戻って来そうにないからな。」
「あ…ありがとうございます。」
受け取ったカップを両手で包み込みながら、瞬は、カノンの動向を目で追った。
凍りつきそうだった指先に、じんわりと熱が伝う。
「そういえば。」
瞬のすぐ真横に立ち、カノンが、思い出したように口を開く。
「おまえは、聖闘士を辞めようと思ったことはないのか。」
「え…。」
「聖戦が終わり、とりあえず、俺たちの役目は区切りがついた。
アテナは慈悲深いお方だ。おまえが戦うことを放棄したいと言えば、恐らく、その望みを叶えてくださっただろう。そうしようとは思ったことはなかったのか。」
「どうしたのです。いきなり。」
「どうなのだ。」
口調こそ平常に近いが、重みのある響き。
その言葉が持つ意思を正しく理解した瞬にしてみれば、それは尋問に等しかった。
視線が、湯気の立ち上るカップに落ちる。
「…正直、今でも、戦いは苦手です。
人を傷つけるのが…怖い…です。
でも、そう思っているのは、きっと僕だけじゃない。
みんなも、きっと、人を傷つけることに傷ついている。
そう思ったら…苦しいのはみんな同じだと思ったら…逃げちゃいけないって思うのです。
それに…戦わなければ守れないものだってあると思うから…。だから…。」
長い息を吐いて、瞬の眼が、ひとつの星を捉える。
はるか彼方を見据えるような眼差しは、内面から湧き出た確かな思いを、
己自身に刻み付けているようにも見えた。
「僕は、逃げません。大切な人たちを、この手で守りたいと思うから。」
「…そうか。」
「それに、僕は今まで、いろんな人に助けられてきました。
沙織さん、星矢に紫龍、氷河、兄さん、それから、カノン、あなたにも。
みんなが支えてくれたから、今の僕が居る。
だから、僕も、みんなを支えられるようになりたいと、そう願っています。」
「先の長い話だな。」
「そう…思いますか?」
「アテナは別として…俺を支えるなど10年早い。他のヤツはどうか知らんがな。」
「そうか…。そうですね。僕とあなたじゃ、開きがありすぎる。でも、いつか、あなたの力になれるように。」
頑張ります。
ふわりと緩められた頬。
決意を表す言葉には、まるでそぐわないようにも見えるが、静かだからこそ、その思いが、ごく自然な流れをつくり、
ごく自然に、聞き手の心を浸すのかもしれないと、カノンは思った。
「それなら、いい。」
「カノン?」
「俺を支えるのどうのということはともかく、おまえの意思を聞いておきたかった。…今更だがな。」
愛想のない物言いをする否や、カノンが、カップの中身を、一気に喉に流し込む。
「行くぞ。ここは寒くてかなわん。」
「先に行っててください。僕はもう少し…。」
「ダメだ。ほら、立て。」
「だって、僕、まだ飲み終わってないし…。」
「なら、早く飲んでしまえ。それとも、俺が代わりに飲んでやろうか。」
「もう、わかりましたよ。」
仕方なさそうに溜息をついて、瞬が、中身の熱さに堪えながら、急いでそれを飲み干す。
その様子を見届けてから、カノンはさっさと身を翻し、宮の中へ消えていった。
「…僕って、そんなに信用ないのかな。」
立ち上がり、真っ暗な宮を見つめながら、何とはなしに呟いてみる。
とはいえ、カノンのひとつひとつの行動が、決して自分を縛るためのものではないのだと理解しているだけに、不快な感情は何一つ湧き上がらなかった。
むしろ、自分が発したその呟きが妙に可笑しなものに思えて、我知らず笑みをこぼす。
ふと北西の空を見上げると、ひとつの星が、馴染みのある星座の間を、軌跡を描きながら通り過ぎていた。