薔薇の惑い

 アフロ瞬

 Angel Trip | 3

たぶんあそこだと思う。
ううん、絶対にあそこだ。
僕はシーツを引きずりながら双魚宮の奥へと向かって行った。
薄暗い双魚宮の奥にある何重ものガラスの扉。アフロディーテの薔薇園への入り口は、そこだけ明るい光に溢れている。 何枚ものガラスの扉の向こうには、朝露に陽の光を受けた薔薇たちが、キラキラと、まるで宝石をまとったみたいに眩しく咲き乱れていた。

たぶん僕は、寝ぼけていたんだ、と、思う。

ガラスの扉を1枚、また1枚とくぐる度に、薔薇の香りが強くなっていく。
とてもいい匂い…心も身体も溶かしてしまうような…甘美な香りに包まれてうっとりとした。
僕は、薔薇の香りに負けないように、両手で自分自身を抱きしめながら進んで行くと、とうとう最後の扉の前まで来てしまっていた。
ここから先には行ったことがない。
アフロディーテに開けてはいけないと厳しく言われているから。
僕は、彼が薔薇の世話をする姿をいつもガラスの扉越しに見ていた。
薔薇の中に佇むアフロディーテはとても美しくて、いつまででも眺めていられる。
でも、彼の薔薇にだけ向けられる慈しむようなあの表情を見ると、なぜだか僕の胸がチクチクして苦しくなった。
だから僕は、ここにはあまり来ないようにしていたんだ。
でも…。

僕は、おでこをくっつけるようにしてガラスの扉の向こうを覗き込んだ。
この冷たいガラスの向こうは別世界。
アフロディーテの為だけに生きている薔薇たちが、アフロディーテの為だけに咲いている。 その無数の薔薇の中に、彼の豊かな金髪が揺らいでいるのを見つけた。
急に、嬉しいような切ないようなごちゃごちゃな気持ちが込み上げてきて、僕は、最後のガラスの扉を開けて走り出していた。
ひるがえる薄い布…花びらが舞い散り…薔薇の香気が僕を包んで押し返してくる。
僕は必死に手足を動かそうとするのだけれど、どんどん重くなって言うことを聞いてくれない。
ああ、そうだ、ここは毒薔薇の園。

「アフロディーテ!」

僕は、ゆっくりと反転する世界の中で、僕の上に大天使が降り立つのを……見た。





そろそろ戻らなければ。
瞬が目覚めてしまう。
薔薇の手入れをしていると、つい時間が経つのを忘れてしまうな…。

私は艶やかな花びらの一枚を手に取ると、親指でそっと表面をなでた。
ひとつひとつ違う表情の花たちに、いろいろな瞬の顔を重ね合わせる。
優しい微笑み、元気な横顔、いたずらにくるっと回る瞳、拗ねて膨らんだ頬、怒ってへの字にまがった口、ぽろぽろとこぼれる真珠の涙…。 次から次へと瞬の姿が浮かんでくる。
私の心はこんなにも瞬で溢れているのか…。
体中にじんわりと広がっていく暖かさを確かめるために胸に手を置くと、祈るように目を閉じた。
瞬に悲しい顔だけはさせまいと、誓う。

その時、人の気配を感じ、名を呼ばれた気がした。
顔を上げると、瞬がこちらへ走りながら崩れ落ちていく姿が視界に飛び込んできた。

「瞬!?」

私は、瞬の身体が地面に倒れ伏す前に無我夢中で抱きとめていた。
やわらかな髪が鼻先をかすめ、華奢な腕が人形のようにぱたりと落ちた。